「否定したいだけの人」にまで伝えようとしなくていい
2021.11.22
前回の記事では「SNSの中に壁を作り、その壁の中で安心して表現をする」ことの重要性について書いたが、壁を作ることにより失うこともある。今回はそれについて書くことにする。
そもそも僕は壁を作ることに対して非常に抵抗があり、今までも有料noteなどをやるのはちょっとなあ…と二の足を踏んでいた。でも今思い返せば、もっと早くやっておけばよかった、と若干後悔している。結局、二の足を踏んであれこれ悩んでいる時期、僕は自分の自由な創作ができていかなったという実感があるからだ。
なぜこんなに悩んでしまっていたのか?それは僕の勝手な想いというか、エゴというか、そういうものがあったからなのだけど、それは
「一人でも多くの人に、もっと楽に生きられる人生の選択肢を提供したい」
という、まあ文章で書くと青臭い感じの想い(でも誰からも求められてない創作を続けるクリエイターって、何か突飛で熱い想いでもないと何かを創り出すってことはできないので、ここは「ふーん」と生暖かくスルーしてください)。
こんな想いを持ったのは、自分の辛い体験がきっかけとしてある。僕は今42だが、30代当時、僕は日本ではまだまだ珍しい「専業主夫」として10年ほどやっていて、仕事の悩み、ジェンダーの悩み、育児の悩み、生活の悩み、いろんな悩みと直面してきた。で、そんな悩みが解決する時、いつも思ったのが
「こんな選択肢があった(許された)のか!」ということ。
男は仕事に生きなければいけない、というマインドに囚われていたけど、そんなことにこだわらずとも幸せにやってる家族の世界を知ることによって楽になれた。
お金は汗水垂らして稼がなければいけない、というマインドにとらわれていたけど、企業や投資で幸せになってる人たちの世界を見ることによって楽になれた。
育児は周りと歩調を合わせないと、子供がまともに育たないという恐怖心があったけど、全く歩調を合わせずとも素晴らしい子育てをしている親に会って楽になれた。
…こんな経験が、過去15年で数えきれないほどあった。そして僕は今マレーシアに住んで、自由気ままな生活を送っている。
15年前の僕からは夢にも考えられないことで、タイムマシンがあったら過去の自分に伝えたいことが山ほどある。お前はもっと選択肢があるんだよ、もっと自由なんだよ、と。
僕の周りには、良い人だけど毎日大変な思いをして生きてる人がたくさんいる。だからそんな人たちのために、もっと楽に生きられる選択肢を提案したい、という思いでずっと漫画や文章、動画で発信してきた。
実際、僕のところにDMやメールなどでメッセージが届き(こうやってすぐにその人にメッセージを伝えられるのはSNSの良いところでもあるんだけどね…)、
「そんな考え方/やり方があったなんて目から鱗です!ありがとうございます!」
「私以外でも同じことを考えてる人がいて安心しました!」
といったメッセージを日々いただくことができ、僕もそういったメッセージを読むと、本当に充足した気持ちになれる。この充足感は、お金がいくら儲かった、みたいなものを遥かに超える気持ち良さで、これぞクリエイター冥利に尽きるのだ。
しかし一方で
「誰でもできるわけではないことを無責任に「できる」と言うな」
「非常識な発想すぎる、そんなやり方が上手くいくわけがない」
と言った内容のメッセージも多くもらうようになった。昔はこういったメッセージはそんなに多くなかったので、それに一つひとつ反応するようにしていた。「話せばわかってもらえる」という期待があったからだ。
さらに、ここ4、5年前くらいからだろうか、こう言ったメッセージがあまりにも多くつくようになってしまった。昔はツイッターのリプも2、3だったものが、今は何十という反応がついたりする。これはSNSのユーザ人口の増加や、高齢化など複合的な理由があるのだろうが、なんにせよ、こうなると「一人ひとりと話し合う」なんてできやしない。昔のやり方は通用しなくなっていった。
そしてさらに最近感じるのが、そのもらうリプの内容の変化。
「会社員を辞めても人生何とかなるよ!」
→敗者の遠吠え乙www
「裕福になるにはこういうやり方があるよ!」
→やっぱりこの人も怪しい情報商材売る人なんだ
「海外移住はいいよ!」
→日本を捨てるとか非国民だな
「英語教育をしておくと得だよ!」
→英語教育にお金をかけられない人もいる、金持ちマウンティングうざい
…なんだか、かつての2ちゃんねるっぽいニオイがするようになってる。
まあ、匿名の場所でこういうメッセージが発生するのもわからなくもないが、しかし一方で、こういうメッセージをもらえばもらう程、「みんなに伝える必要はないな…」となっていく。
正直、あまりに状況、環境が違いすぎる人たち全員に響く文章を書く自信が無い。それにもしもそういうのをやろうとするなら、きっと「気持ち」の話しか出来ず、それってなんか宗教っぽいし、僕が発信したいことでもない。そんな経緯があり、僕は「全員に響く文章」を書くのをやめることにした。

それにもっと言えば、僕が読む人を選ぶ権利だってあるだろう。
そもそも僕は創作を生業にしていない。
これもまた追って話そうと思うが、僕はやることなすこと全てが「副業」で、「生業」がない(いや、こうやって書くと我ながら怪しいおじさん感すごいな…でも、こういう生き方は昔の日本では割と普通だったのだけど)。だから、この発信で金を儲けないと生きていけない、という危機感がない。僕の発信や創作が全然ポシャって、全く儲からなくても、僕の生活に影響はないので、本当の本音が言える。
こちらから「お金を出して」と求める必要がない立場です、と主張するのは一見偉そうに見えるかもしれないけど、同時に読み手に安心感を与えることもできると思っている。だって恣意的なことを書く必要がない人、と思われてるってことだから。
だからこんな話を聞いて「うわ、怪しい」と思う人に、あえてこちらから「いや、怪しい人間じゃないですから!」と一所懸命弁解する必要も、もうないかな、と思ってる。むしろ
「ハイどーもー、インチキおじさんです!」
と言って、それを笑ってくれる人たちだけとワイワイやっていたい。